よく分からない

 

最近、殺人事件などの裁判で、何かと

 

「心神喪失により、無罪」

 

という判決が出ているのを目にします。

しかもこのところ、急に増えてきたような。

 

でもそれって、どうなんでしょうか。

 

そもそも、人を殺してしまうような人が

その瞬間、心神「正常」であるはずがありません。

どんな原因があったにせよ、

何らかの理由で「心神を喪失して」殺人に至っているわけです。

もし、それが「無罪」なのだとしたら、

極端な話、すべての殺人事件は無罪ということに

なってしまいます。

 

 

そこに「殺人」という大きな罪があって、

その「行為」が心神喪失下の出来事だったとしても、

その「罪」まで消えてしまうことはないはず。

たとえば、クルマで人をはねたら、

たとえ一瞬の不注意のせいであったとしても「罪」になる。

「罪」ってそういうものだと思うのです。

 

 

秋葉原の容疑者だって、

心神が「正常であった」とは思えません。

あの人だって、無罪になってしまうのでしょうか。

 

 

「加害者側の人権にも配慮すべき」という

時代の流れなのか、

それとも「これで勝負すれば勝てる!」というのが

弁護士側の常識になってきているのか。

そのへんは、私にはよく分かりません。

 

でも、罪を犯した人が無罪になって、

何の罪もない人が悲しまないといけないという

感覚的に「おかしい」ことが、

裁判では「正しい」というのは、

やっぱり「おかしい」ような気がするのですが。

 

 

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年末の社会学

 

忘年会や新年会が重なるこの時期には、

大きく分けて以下の2タイプの人間を、

私たちは目にすることができます。

 

お酒を飲んで「酔い潰れる人」と、

それを「介抱する人」です。

 

さて、このうちどちらが幸せかと言えば、

間違いなく「酔い潰れる人」である、

と断言することができるでしょう。

 

大好きなお酒を楽しみながら、

上司の悪口を言ったり、

派遣社員さんのおっぱいを触ったり、

さんざん好き放題やっているうちに記憶もなくなり、

翌日、お昼過ぎに自宅のベッドで目を覚ます。

この場合、基本的には酒の席での出来事ということで、

多少の非礼はお咎めなしになる場合がほとんどです。

 

一方、介抱する側の人には、

お酒が「強い」人と、お酒を「飲まない」人という

2つの場合があるかと思いますが、

どちらにせよ、シラフであるが故に羽目を外すこともなく、

宴が終われば、当たり前のように

いろんな事項の後始末を任されることになる。

つまり「介抱する側」の人々とは、

「宴の楽しみは少なく」、「面倒くさい後処理は多い」

という、まことに気の毒な人々なのです。

 

 

おそらく、ビジネス一般においても、

日常生活においてもそうなのですが、

ストレスで体を壊したり、ノイローゼ気味になったりする

いわゆる「潰れて」しまうタイプの人は、

もちろん短期的にはすごく苦しいと思いますが、

そのぶん周囲からは気の毒だ、可哀想だと、

何かと同情の目で見られがちです。

 

しかし、たまたまストレス耐性が強いばかりに

「潰れる」ことのない人たちはと言えば、

自分のストレスに加え、周りから悩みを聞かされるストレスや、

潰れてしまった人たちを介抱するストレスなど、

実は2重、3重の苦しみを背負っていることが

多いのではないかと思うのです。

 

そして、何より不幸なのが、

忘年会の場合と同じく、「潰れた」張本人は

そのことに全く気付かないままでいる、

ということなのです。

 

 

私はお酒をあまり「飲まない」ので、

忘年会の例で言えばほぼ100%、

「介抱する側」に回ります。

これはずいぶん損な役回りじゃないか、と思う一方で、

そんな生き方もいいじゃないか、

自分の人生に与えられた役割だと思って

甘んじて受け入れよう、なんてことを思ったりもします。

 

でも、もし次に生まれ変わって

どちらかの人生を選べるとしたら、

絶対に「酔い潰れて」しまえるほうを選ぶだろう。

 

そんなことも、思ってしまうのです。

 

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子供たちに新喜劇を

 

いじめを苦に、自ら死を選ぶ子供たち。

彼らの遺書の中には、その理由としてしばしば

「身体的特徴をバカにされた」

といった文言が出てきます。

 

自殺した本人にとっては

確かに苦痛だったのかもしれませんが、

子供の悪口なんて、大抵は

チビ、デブ、ブス…といった身体的特徴から始まるものです。

そんなことで傷ついていたら、

中肉中背の美男美女以外は

全員、自殺しないといけないことになってしまいます。

本人の性格やその場の状況にもよりますが、

本当は、悪口ぐらいで

いちいち悩んでいる場合ではないのです。

 

そこで。

 

子供たちには、ぜひ、小さいうちから、

「吉本新喜劇」を見せてあげて欲しい。

 

新喜劇は、それこそ身体的特徴いじりのオンパレードです。

辻本茂雄は、何もしていない時でも

「フランスパンを食べながら話をするな!」

と怒られ、

同じく烏川耕一も、何もしていない時に

口笛を吹くな」と怒られます。

浅香あき惠はいつ登場してもブスキャラで、

池乃めだか師匠に至っては、

60歳を過ぎているのに

「ボク」「ミクロマン」「小さいオッサン」です。

 

そうした「身体的特徴」は、欠点ではなく、

実は彼らを引き立てる「個性」であるということ。

そして、そんな「悪口」にへこたれず、

ギャグやノリツッコミで返すところに、

笑いが生まれ、コミュニケーションが生まれるということ。

そのことを、子供たちには新喜劇を見ることで、

肌で感じて欲しいと思うのです。

 

もともと関西には、多少のことなら

ギャグで返してしまう、という文化があります。

大人でいえば、離婚や借金だってネタになります。

それ故に、自殺してしまった子が関西の子だったりすると、

せっかくの「地の利」をなぜ生かせなかったのだろうと、

余計に悔しい気持ちになってしまうのです。

 

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善と悪

 

いじめを苦に、小学生や中学生が

自らの命を絶つという、

痛ましい事件が後を絶ちません。

 

これは、いじめた側について言えば、

(そこにどういう原因があったにせよ)

最終的には「死んで逃れたい」というところまで

相手を追い詰めてしまった、ということです。

その罪は、いくら償ったところで

償えるようなものではありません。

 

ただ、彼らが、本当に相手を

死に追い詰めたいとまで思っていたかと言えば、

おそらく、そうではないでしょう。

いじめた相手の死によって初めて、

相手が受けていたダメージの大きさに気付く、

という場合が殆どだと思います。

 

そして、それを敢えて別の視点で言い換えるなら、

いじめた相手に対して、

反省したり、謝罪したり、関係を修復したりする機会を、

相手の死によって一方的に奪われてしまった、

ということでもあると思うのです。

 

 

話は少し逸れますが、

前に中田英寿が自身のHP上で引退を発表したとき、

それまで彼に否定的だったマスコミが

こぞって彼の決断や生き様を称えるようになり、

共にワールドカップを戦った他のチームメートたちについては、

そんな中田の期待に応えることができなかった、

一様に力不足であった、とする記述が多くなりました。

彼が「引退」という最終的な決断を先に下したことで、

中田が善、それ以外が悪というレッテルが

くっきりと貼られてしまったのです。

 

このことと、自殺の話が同じだなどと言う気は

毛頭ありません。

ただ、死というものがそれと似た性質を

孕んだものであるということは、

やっぱり意識していないといけない。

 

死によって、すべての過程は0になり、

当事者たちは無条件に「善と悪」に分けられてしまう。

これは殆どの人が無意識にやっていることでもあり、

だからこそ、すごく恐ろしいことだと思うのです。

 

いじめられた側の苦悩に、

誰もが同情的になるのは仕方のないことでしょう。

ただ、そこに善と悪の関係を安易に持ち出すことは、

つまりは「死」を選ぶことで

世の中が味方してくれるという社会の性質を、

子供たちに繰り返し刷り込むことにもなっている。

 

そのことは、知っておかないといけないと思います。

 

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あの日の景色

 

このあいだ、

入社してから2年間住んでいた社員寮に

たまたま行く機会があったのですが、

その現地に着いた瞬間、

私は妙な違和感に包まれました。

 

「あれ?小さい・・・」

 

子供の頃通った小学校や通学路を

大人になってから訪れると、

建物や景色の小ささに驚いてしまう、というような話は

しばしば耳にします。

でも、私が社員寮に住んでいたのは22歳ごろの話で、

そこから身長が伸びたという実感もありません。

知らないあいだに一回り小さくリフォームした

という可能性も極めて低いでしょう。

 

と、それからしばらく経って、

今度は仕事で、新入社員の頃に研修を受けた

東京の旧本社ビルを訪れたのですが、

なんと、これがまたしても

 

「小さい…」

 

のです。

1階のロビーからエレベーターまでの距離も、

昔に比べて明らかに短くなっている。

これは一体、どういうことなのでしょうか。

 

 

そう、おそらくは今私が見ている風景が

「実際の」サイズなのでしょう。

逆に言えば、新入社員当時の私にとって、

周りの建物や風景、同僚や先輩たちは

きっと実際以上に「大きく」見えていたのです。

 

右も左も分からない、

この先どんな毎日が待ち受けているのかも

分からない、そんな不安や心細さが、

自分では気付かないうちに、

周りの風景を一回り大きく見せていた、

ということなのでしょう。

 

そんなことに気が付いて、

10年前の自分が、少しだけいとおしくなりました。

 

そして、昔通った小学校や通学路が

小さく見えるという話も、

もしかすると身長のせいだけではないのかも、

なんてことを、ちょっと思いました。

 

 

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とっさの言い訳

 
昨日、駅のトイレに入ったら、

大をするほうの個室から、携帯電話で話す声が。
 

 
「…もしもし、あ、すいません、僕ね、いま、
 
インターネットカフェにいるんですよ〜
 
 
 
思わず心の中で

「うそつけ!」と叫んでしまいました。

 

そんなところに高速ブロードバンドが標準装備されていて、

そのうえアイスコーヒーでも持って来られたら

たまったものじゃありません。

 

「お飲み物のサイズはどうされますか?」
 
「もちろん、大で」

 
 
なんて言ってる場合でもありません。

 
 

人間、追い込まれると何を言い出すか分からないものですね。

 

 

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ルーティンの恐怖

 

これから続いていくであろう毎日に対して、

どうしようもなく「怖く」なってしまうことがあります。

 

これから自分は同じような仕事を続けて、

同じような生活パターンを繰り返して、

仕事でも、家庭でも、背負うものばかりが大きくなって、

それらに追われているうちに、

気がつけば定年を迎えているのではないか、と。

 

広告の仕事をしている人間が

こういう不安を口にするのは、

きっと、厚かましい部類に入るのでしょう。

なぜなら広告の仕事というのは、

日々飛び込んでくる新しい商品、新しいオリエンに対して、

常に新しい企画で応えていくものだからです。

そこに「ルーティン」の要素は限りなく少ない。

 

仕事面では限りなく恵まれているにも関わらず、

街で見かけるほとんどの「お父さん」がそうしているような、

あるいは自分の父親もきっとそうしていたような

ある種のルーティンな日常に身を置くことに、

私の場合はどうしても「恐怖」を感じてしまう。

 

でも本当は、牢屋にでも入らない限り、

ルーティンな日常なんてものは存在しないはずなのです。

 

毎日の喜怒哀楽。

いろんな人との触れ合い。出会いと別れ。

いい本に出会えたこと。いい音楽を聴いたこと。

ごはんがおいしかったこと。

あるいは、季節の変化だけをとってみても、

それがどんなに日々を繊細に彩ってくれているか、

少し注意していればすぐに気付けるはずです。

 

…と、そこまで分かっていながら、

やっぱり冒頭の不安に立ち返ってしまうのは、

「いま」自分が置かれている状況のせいなのでしょうか。

それとも、単に私自身の性格のせいなのでしょうか。

 

そして街のお父さんたちは、

実は私と同じような恐怖を、

どこかに抱えていたりするのでしょうか?

 

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