小室さんは悪くない

 

いや、まあ事実としては悪いんですけど、

個人的には「仕方ないんとちゃうの?」と

思える部分もあって。

 

たとえば、ワイドショーで

「小室容疑者は一時期たいへんに羽振りが良く、

何億の寄付をしたり、何億の別荘を購入したり…」

だとか、

「最近になっても散財を続け…」

みたいな話が一通り出ると、

大抵どこかのコメンテーターが

 

「絶頂期の頃の自分から抜け出せなかったんですかね」

 

みたいなことを言うわけです。

でも、ここがちょっと違うような気がする。

 

確かに、一般庶民の良識からすれば、

「お金があるときは使えばいいけど、

ないならないで節約しなさい」ということになる。

それはまったく正しいのですが、

逆に、そんな「一般的な」感覚を持ち合わせた人が、

数年間に10作も20作もミリオンセラーを出すような人に

なれるのか?という話です。

 

彼は凡人にはない才能やセンスを持っていたからこそ、

常識外のペースで、あれだけのヒットを飛ばし続けることができた。

そこは持てはやしておきながら、

生き方については庶民と同じ感覚を求めるなんて、

はっきり言って「ムシがいい」のでは、と思ってしまうわけです。

 

たとえばイチローが変人だとかいうけれど、

確かにそうなのかもしれないけれど、

だからこそ彼は我々には想像もつかない、

超人的な成績を残し続けている。

そんな彼の日常生活の部分にだけ

一般的な常識を持ち込んでも意味がないのと同じで、

小室さんだって、急にバランス感覚を求められても

困るんじゃないかと思うのです。

 

詐欺は良くないですよ、犯罪だから。

それはもちろん厳しく責められるべきです。

でも、天才というのは

常識的な発想が及ばないから天才なのであって、

その人の行動が常軌を逸しているのは当たり前。

その異常性を、犯罪の理由みたいにしてここぞとばかり叩くのは、

やっぱりちょっとおかしいと思うのです。

本当に叩くなら、売れてるときから叩くべきであって。

 

 

話は変わりますが、自分の周りを見ても、

「すごい人」って

やっぱりちょっと変人だったりするんですね。

目付きが違ってたり、寝なくても平気だったり、

家庭がうまく行ってなかったり ←大丈夫かこの発言

 

逆に私なんかは凡人の代表で、

それ故に自分の限界も見えていたりするから、

変人の「変人性」というのは、正直どこかで羨ましかったり、

どこかでリスペクトしてたりする。

 

だからこそ、今回の報道を見ていても、どこかで

「凡人が天才に何言うとるねん」

みたいに思ってしまう自分がいて。

それはそれで、歪んだ見方なのかもしれないですけどね。

 

 

 

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よく分からない

 

最近、殺人事件などの裁判で、何かと

 

「心神喪失により、無罪」

 

という判決が出ているのを目にします。

しかもこのところ、急に増えてきたような。

 

でもそれって、どうなんでしょうか。

 

そもそも、人を殺してしまうような人が

その瞬間、心神「正常」であるはずがありません。

どんな原因があったにせよ、

何らかの理由で「心神を喪失して」殺人に至っているわけです。

もし、それが「無罪」なのだとしたら、

極端な話、すべての殺人事件は無罪ということに

なってしまいます。

 

 

そこに「殺人」という大きな罪があって、

その「行為」が心神喪失下の出来事だったとしても、

その「罪」まで消えてしまうことはないはず。

たとえば、クルマで人をはねたら、

たとえ一瞬の不注意のせいであったとしても「罪」になる。

「罪」ってそういうものだと思うのです。

 

 

秋葉原の容疑者だって、

心神が「正常であった」とは思えません。

あの人だって、無罪になってしまうのでしょうか。

 

 

「加害者側の人権にも配慮すべき」という

時代の流れなのか、

それとも「これで勝負すれば勝てる!」というのが

弁護士側の常識になってきているのか。

そのへんは、私にはよく分かりません。

 

でも、罪を犯した人が無罪になって、

何の罪もない人が悲しまないといけないという

感覚的に「おかしい」ことが、

裁判では「正しい」というのは、

やっぱり「おかしい」ような気がするのですが。

 

 

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そのスポーツは面白いのか

 

世の中には、野球が好きな人がいれば、

サッカーが好きな人もいる。

阪神が好きな人がいれば、巨人が好きな人もいる。

 

好きとか嫌いとかいうのは「感覚的」なものであって、

何が正しいとか、間違っているといった

「絶対的」なものではありません。

 

そのことはじゅうぶん承知したうえで、

あえて好き勝手なことを書いてみたいと思うのですが、

 

 

最近、テレビを観ていて、

 

そのスポーツは、本当に「それほど」面白いのか?

 

と思うことが、よくあります。

 

 

たとえば「女子バレー」

メグとか誰とか、人気の選手もいるかと思うのですが、

結局は身長と身体能力の高さが

そのままスコアに出てしまうようにも見えて、

個人的には、どうしてもそれほど興味を持つことができません。

 

あと、「シンクロナイズドスイミング」

観ていてすごいなぁ、とは思いますが、

一方ではどこかの国のマスゲームに通じるような、

ある種の切なさや悲しさを感じずにはいられません。

 

と、そんなことを書いていたら、間違いなく

 

 

「そんなもん、お前の勝手やろ!」

 

と言われてしまうかと思うのですが、

それはその通りとして、

私が言いたいことはもう少し別のところにあります。

 

 

もし、そのスポーツが本当に面白くて、

本当に国民的に支持されているなら、

どうして各テレビ局のスポーツニュースが

「同じように」大々的に取り上げないのかと。

 

たとえばこれがサッカーワールドカップの予選であれば、

中継した局以外のスポーツニュースでも、

必ずそれなりのボリュームで取り上げてくれます。

野球の結果とか、大きなマラソンの結果とかでも、

同じことが言えるでしょう。

 

ところが。

 

バレーボールとか、水泳といった類のスポーツは、

放映権を持っている局と、それ以外の局とで、

取り上げ方に天と地ほどの差があるのです。

格闘技しかり、F-1しかり、なのですが。

 

これはなぜかと言うと、

 

バレーボールにしろ水泳にしろ、それを中継している局は、

視聴率を取らないといけないので、

そのスポーツコンテストをまるで

「国民的行事」であるかのように取り扱う。

 

中継だけならまだしも、「もうすぐ開幕!」みたいな特番を組んで、

キャスターにはタレントを据えて、

とにかく、お祭り感を盛り上げていく。

 

ところが、(ここから先はまた議論をよぶ表現になりますが)

そのスポーツに実際多くの人が関心があるかと言うと

現時点では必ずしもそうではないので、

他局のスポーツニュースでは、ほんの10秒ほど、

結果だけ伝えて終わりということになってしまうのです。

 

 

というわけで、冒頭の私の疑問は、

実は次のように言い換えることができます。

 

 

そのスポーツは、中継の中では

すごく面白いものであるかのように描かれているけれど、

テレビ局の演出なしで見たときにも、

それと同じ面白さを感じるのだろうか?

 

 

そして、ここまで書いて分かったことですが、

私はたぶん、バレーボールとか

シンクロ自体に興味が持てないのではなく、

過剰に取り上げてなんとか人気コンテンツ化しようとする、

テレビ局の思惑に対して興ざめしているのだと思います。

 

だから、バレーファンの人、シンクロファンの人、

決してスポーツ自体を否定している訳ではないので、ごめんなさい。

(否定してるやんけ!と言われそうではあるけど)

 

 

そして、最後になりましたが、

柳本ジャパンの皆さん、シンクロ日本代表のみなさん。

北京オリンピックでも、頑張ってくださいね。 

 

 

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モンスター化する社会

 

学校や先生に過大な要求を突きつける、

いわゆる「モンスターペアレント」と呼ばれる人たち。

 

昔から「そういう」類の人は少なからずいたのかもしれないし、

「そういう」名前を与えられることで、

より社会的に認知されやすくなった、という側面もあるでしょう。

 

でも、やっぱりそれだけじゃないような気がする。

 

「学校と親」という関係においてだけでなく、

社会のあらゆる局面において、おそらく、

モンスターな人たちは

確実に増えているのではないか、と思うのです。

だとしたら、それはなぜか。

 

 

いま、世の中はあらゆる分野で高度化・専門化が進んで、

知識や技術を持っている「プロ」側の人々と、

それをお金を払って享受する「消費者側」の人々との差が、

どんどん大きくなってきています。

 

分かりやすい例で言えば「パソコンが壊れた」時。

説明書のさいごに書いてある

 

「コンセントが抜けていませんか?」

 

程度の原因ならともかく、通常は、

自力で直すなんてことは不可能でしょう。

 

「ケータイが壊れた」「ネットがつながらない」「クルマが壊れた」

 

故障の程度にもよりますが、

昔はお父さんか、少なくともご近所の中で何とか解決できたことが、

今は遠くの誰かに頼まないと、どうしようもなくなっているのです。

 

どこかに、すごく高度な知識を持った人たちがいて、

その分野のことは、その人たちにしかできないという「事実」。

 

これが日常生活の中で当たり前になるにつれて、

意識の中でも「プロ」と「自分たち」がはっきりと区別され、

「自分たちにできないことは、プロにお願いしましょう」

という発想になる。

 

そして、それがさらに進むと

 

「あなた方はプロなんだから、

何でも完璧にできるんでしょう?」

 

という、ある種の逆ギレにも近い発想に

行き着いてしまうという訳です。

 

 

「モンスターペアレント」しかり「コンビニ医療」しかり、

最近の消費者側とプロ側のあらゆる問題は、

このあたりに端を発しているような気がしてなりません。

 

とは言え、経済が成長する限り、

世の中の高度化と専門化は避けられないのだとすると、

こうした現象は、今後拡がることこそあれ、

決してなくなることはないのでしょう。

 

そう考えると、なんだかなぁと、

少し物悲しい気持ちになってしまったりもするのです。

 

 

ちなみに、広告業界においては、

たいていの会社は「モンスタークライアント」です。

こっちも、もう少し社会的な問題になってくれるといいのですが。

 

 

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賛否両論

たぶん、いま日本でいちばん多く

ブログに書かれている話題だろうと思います。

 

「落合の投手交代」

 

どっちの意見にも言い分はあるし、

どっちが絶対的に正しいというわけでもない。

どっちかの意見を強く主張したら、

賛成派と反対派から、嵐のように

コメントが書き込まれるのでしょう。

(このブログぐらい無名だと問題ないけど)

 

でも、そもそもなぜ、

53年ぶりの日本一、なんて時に

「賛否両論」が渦巻かないといけないのか。

 

それはやっぱり、あの場面での投手交代が、

評論家の皆さんも言うように

「常識では考えられない」ことであるから。

なぜ「常識では考えられない」のか?

それは、おそらく多くの野球ファンが、

その「続き」があることを、何の疑いもなく

心待ちにしていたから。

 

結果がどう出るかということよりも、

その瞬間に自分が立ち会えるかもしれないという興奮

みんなの心の中にあって、

それが意外な形でぷっつり途切れてしまったからこそ

「常識では考えられない」のであり、

「賛否両論」が渦巻いているのです。

 

落合監督の真意は誰にも分かりません。

たぶん、永遠に。

ものすごく邪推をすれば、

所詮2位のチームが、完全試合などという形で

パ・リーグ優勝のチームを倒して日本一になるというのは、

相手に対して失礼だと考えたのかもしれない。

でも、そうじゃないかもしれない。

 

そもそも、日本中の誰一人として、

あの時の落合監督と同じ心境になることはできないし、

それを正しいとか、間違ってるということは、

実はあまり意味がない。

そこには、誰も体験することができない

「極限」の状態に追い込まれた監督がいて、

私たちはたまたまその瞬間に、

立ち会っていたに過ぎないのです。

 

それでも、ただひとつ確かなことは、

あの場面、みんなはその「瞬間」を

待っていたということ。

待っていたからこそ、「賛否両論」が

渦巻いているのだということ。

 

そして、53年ぶりの日本一には、

「賛否両論」という

余計なおマケが付いてしまったこと。

 

それだけは、否定できない事実だと思うのです。

 

 

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たしなめる

東京のどこかの街で、

「噴水で遊ぶ子供の声がうるさい!」

と近くの女性が市を訴えたら、

なんとそれが認められて、

噴水を止める判決が出たんだとか

 

これはヤフーニュースに出ていたので、

きっといろんな人が目にして、

いろんな人がブログなりに、

感想を書いてるんだろうと思います。

 

 

じゃあ子供を街から消せというのか。

 

公園は公共の場所なのだから、

静かな場所に住みたいなら、

自分が引っ越せばいいじゃないか。

 

たぶん、そんな意見で溢れているのでしょう。

私も、まったく同感です。

 

でも、そもそも釈然としないのが、

なんで、裁判所はそんな決定をしちゃうんだろう?

 

法律とか、そういうことじゃなくて、

 

「公園は、みんなが楽しむ場所だよね?

だから、少しぐらいうるさくても、がまんしなくちゃいけないよ」

 

と言えば、それで済むことなんじゃないだろうか。

言わば、「諭す」と言うか、「たしなめる」と言うか。

 

感覚的におかしいことが、

法律を辿って行けば「正しい」になってしまう。

それってやっぱり、怖いことだと思うのです。

 

だから本当は、裁判官のような人ほど、

法律ではなく「感覚」に長けた人で、

あって欲しいなぁと思うのです。

 

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ベンリな格差社会

 

よく言う「格差社会」って、つまりは

 

「ベンリな社会」

 

のことなんじゃないか、と思ったりします。

 

たとえば、コンビニが24時間空いている。

イオンがお正月から営業している。

今日送った荷物が明日の朝には届く。

これってすごく便利だけど、よくよく考えたら、

それを実現するために、たくさんの社員さんやバイトさんが

朝から夜中まで働いているわけです。

 

「ベンリ」を享受できる人たちの裏には、

必ず、過酷な労働を甘んじて受け入れている人たちがいる。

トラックや長距離バスの運転手さんが

居眠り運転で事故を起こしてしまうのも、

つまりは、そういうことだと思うのです。

 

だから、格差社会は良くない、

みんなが安心して暮らせる世の中を実現しよう、と言うのなら、

実はみんなが、

少しずつ「不便」を共有しなくちゃいけない。

 

深夜にお腹が空いたら、翌朝までがまんするか、

そういう事態を見越して買い置きをしておく。

翌日に届かない荷物は、翌々日でガマンしてもらう。

とにかく、みんなが一度慣れてしまった「ベンリ」を

どこかでもう一度ガマンすること

必要なんじゃないでしょうか。

 

もし、それが現実的でないのだとすれば、

どこかで「すごくベンリなもの」に出会ったとき、せめて、

その裏にある、

「すごく大変なこと」を想像してみる。

 

…それだけでも、世の中はずいぶんと

暮らしやすくなるような気がするのです。

 

 

 

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アネハCD

 

うちの会社の、とあるCD(クリエーティブ・ディレクター)は

何かと残念なのですが、その理由のひとつに

 

「競合に勝つためならどんなコンテでも作る」

 

というのがあります。

 

例えば、それほど予算がないのに

ものすごいCGを使うことになっていたり、

30秒CMなのに45秒ぐらいのナレーションが入っていたり、

ということを平気でやってのける。

 

 

そういうコンテを出すと、確かに競合には勝てたりするのですが

(それはそれでクライアントも困ったものです)、

さて、それを基にCMディレクターが演出コンテを描こうとすると、

当然、辻褄が合わなくなる。

 

「これではCMが成立しないですよ」と指摘され、

じゃあ、監督の思うようにやってください、と言うと

これまた当然、企画コンテとは似て非なるものが出来てしまう。

それをクライアントに再度プレゼンすると

「話が違う」ということになり、

いつまで経っても話が前に進まない。

チームの士気は下がり、スタッフは混乱する。

 

プレゼン段階でのコンテの「うそ」が原因で、

事態はどんどん悪いほうに進んでいくというわけです。

 

 

と、ここまで考えて、

私はふと、ある人物の名前を思い出しました。

 

 

姉葉秀次元建築士。

 

 

そう、考えてみればアネハさんも、

クライアント(施工主)から仕事をもらうために

いい加減な構造計算書を提出し、

それがどうやって審査を通り抜けたのか

そのあたりの事情はよく知りませんが、

いつしかそれは彼のスタイルとなり、

クライアントからは定期的に仕事が舞い込むようになり、

結果として、消費者にとってはとんでもない建築物が

あちこちに出来上がってしまった。

 

この話と、とあるCDのスタイルというのは、

実は全く同じ構造になっています。

そこで私は、競合の勝ち負けを第一優先にして、

企画コンテの整合性をおざなりにするタイプのCDを

 

「アネハCD」

 

と呼ぶことにしました。

あなたの見たCMが「何か苦しいな?」と感じたら、

それは、アネハCDの仕業かもしれません。

 

とは言え、CDという仕事は、

制作にいくら混乱を来したところで逮捕されることもなく、

証人喚問されることもないので、

結局はいつまでも同じ方法で、

とんでもないCMが量産されてしまいます。

 

CMの良し悪しを数値化して、

第3者的に評価してくれる機関があればいいのですが、

「イーホームズ」の例を見る限り、

それもきっとすごく難しいんだろうなと

思ったりするのです。

 

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善と悪

 

いじめを苦に、小学生や中学生が

自らの命を絶つという、

痛ましい事件が後を絶ちません。

 

これは、いじめた側について言えば、

(そこにどういう原因があったにせよ)

最終的には「死んで逃れたい」というところまで

相手を追い詰めてしまった、ということです。

その罪は、いくら償ったところで

償えるようなものではありません。

 

ただ、彼らが、本当に相手を

死に追い詰めたいとまで思っていたかと言えば、

おそらく、そうではないでしょう。

いじめた相手の死によって初めて、

相手が受けていたダメージの大きさに気付く、

という場合が殆どだと思います。

 

そして、それを敢えて別の視点で言い換えるなら、

いじめた相手に対して、

反省したり、謝罪したり、関係を修復したりする機会を、

相手の死によって一方的に奪われてしまった、

ということでもあると思うのです。

 

 

話は少し逸れますが、

前に中田英寿が自身のHP上で引退を発表したとき、

それまで彼に否定的だったマスコミが

こぞって彼の決断や生き様を称えるようになり、

共にワールドカップを戦った他のチームメートたちについては、

そんな中田の期待に応えることができなかった、

一様に力不足であった、とする記述が多くなりました。

彼が「引退」という最終的な決断を先に下したことで、

中田が善、それ以外が悪というレッテルが

くっきりと貼られてしまったのです。

 

このことと、自殺の話が同じだなどと言う気は

毛頭ありません。

ただ、死というものがそれと似た性質を

孕んだものであるということは、

やっぱり意識していないといけない。

 

死によって、すべての過程は0になり、

当事者たちは無条件に「善と悪」に分けられてしまう。

これは殆どの人が無意識にやっていることでもあり、

だからこそ、すごく恐ろしいことだと思うのです。

 

いじめられた側の苦悩に、

誰もが同情的になるのは仕方のないことでしょう。

ただ、そこに善と悪の関係を安易に持ち出すことは、

つまりは「死」を選ぶことで

世の中が味方してくれるという社会の性質を、

子供たちに繰り返し刷り込むことにもなっている。

 

そのことは、知っておかないといけないと思います。

 

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不思議な国民性

 

亀田興毅-ランダエタ戦での微妙な判定に、

6万件もの抗議が殺到した、というニュース。

 

考えてみれば、ものすごく不思議です。

 

判定が僅差であれ、何であれ、

日本人の若武者が外人のチャンピオンに勝利し、

見事タイトルを奪取したわけです。

 

力道山の昔からそうだったと思うのですが、

本来、体格で劣る日本人が、格闘技で外人に勝つというのは、

それだけでも胸がすくような、

清清しい出来事であることは間違いありません

 

それなのに、勝った日本人のほうが

 

「あの判定はおかしい」

 

「ランダエタ選手に申し訳ない」

 

という反応になってしまう。

 

これはやはり、日本人という民族が、

「公平でない、卑怯である」と感じることに関して

どうしようもないぐらい、

居心地の悪さを感じてしまうからなのでしょう。

ズルをして勝つぐらいなら、負けるほうがいいと。

 

「国家の品格」の中で藤原正彦氏が書いていた

「武士道精神」というものが、

なるほど、確かに今でも日本人の中に根付いているのだなあと、

改めて実感させられたような気がします。

 

ナショナリズムより「公平さ」が優先する日本人。

 

その類まれな才能が発揮されるべき場所は、

スポーツの判定だけでなく、

実は世界中にもたくさんあるのではないでしょうか。

 

各国の利害がぶつかるばかりで、

民間人が何人死んでいても停戦決議すら採択できない

中東のニュースを見て、

ふとそんなことを思ってしまいました。

 

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少子化と三国志

 

政治のことはよく分からないので、

今ここで、酔っ払った新橋のサラリーマンのように、

小泉さんや官僚たちのやり方を

声高に批判するつもりはありません。

 

ただ、そんな私にも、

これだけはどうもヤバいんじゃないか

可及的速やかに解決しないといけないんじゃないか、

と思える問題が、2つあります。

それは、

 

「少子化」

 

 

「食糧自給率の低下」

 

です。

 

この2つの問題は、

簡単に言えば(すでにじゅうぶん簡単ですが)

 

「人口が減って」

 

「食べるものがない」

 

ということです。

そう聞くだけでも、一国の将来に関わる、

かつ一刻を争う大問題であるような気がしてなりません。

少なくとも、靖国神社に誰を祀るの祀らないの、という話と比べたら、

はるかに重要な問題であることは

子供の目にも明らかです。

 

そして、この考えが正しいことは、

「三国志」「信長の野望」を思い出してみれば、

誰でも簡単に納得できるでしょう。

 

 

これらのゲームにおいて、君主であるプレーヤーが

まずいちばん最初にしなければいけないことは、

 

「かいこん」

 

をして土地力を上げ、収穫を増やすこと。

そうして、徐々に国力を蓄えていくことで

 

「人口」

 

を増やし、それによって初めて、

安定した税収や、徴兵のための兵力を確保することが

可能になるのです。

 

そこを疎かにしている今の日本が

慢性的な財政赤字から抜け出せないのは、

三国志的な見地からすれば、

ごくごく当たり前のことなのです。

  

逆に言うと、今の日本の政治は、

「かいこん」や「まちかいはつ」をなおざりにして、

いきなり

 

「駆虎呑狼の計」

 

のような難しい計略を仕掛けたり、

馬休のようなどうでもいい武将を

引き抜いたりしているような状況です。

これでは、政治がうまくいくはずがありません。

 

安倍さんにせよ、福田さんにせよ、

次に首相になる方は、

一度これぐらいの基本に立ち返って

政治を考えてみるといいんじゃないか、と思ったりします。

あと欲を言えば、こうした政治家の能力が

  

「武力:52 知力:86 政治力:70」

 

とパラメーターで表示してあれば、

次に誰を選べばいいか、

とても分かりやすくなるのでは、と思ったりもします。

 

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そこまで言うなら

 

正直、今年の阪神は優勝しなくてもいいと思っていました。

 

レギュラーは固定されていて、顔ぶれも去年とほぼ同じ。

それに何より、バントなし、エンドランなし、

赤星以外は盗塁もなしで、

打てばいいけど打たなきゃ負けるという今の岡田野球が、

いち野球ファンとしては非常につまらないからです

 

だったら、古田兼任カントクのヤクルトが優勝して

お祭り騒ぎになってくれたほうが、

よほど野球界全体としては面白い。

本心で、そう思っていました。

 

でも、その考えは改めます。

 

阪神は、今年、何が何でも優勝しなければなりません。

 

なぜなら阪神は、親会社が変わったという理由で、

プロ野球機構だかどこかに、

30億円もの「保証金」を支払わないといけないからです。

オーナー会議でそう決まった以上、従わざるを得ないらしい。

 

しかし、どう考えても理不尽です。

 

阪神は身売りしたわけでも、

親会社ごと買収されたわけでもありません。

ただ、村上ファンドに振り回されて、

阪急と経営統合という道を選択せざるを得なかった。

その事情を、誰もが知っているはずなのに、

 

「協約にそう書いてあるから30億円払え」

 

という乱暴な決定がなされてしまう。

 

厳密にルールに従えばそうなってしまうのか、

阪神という人気球団に対するやっかみなのか、

阪急という企業に対しての不信感があるのか、

その理由はよく分かりません。

ただ、そもそもが「被害者」であるにもかかわらず、

いま日本でいちばんファンから愛されている球団が、

よく分からない理由で30億ものお金を払わないといけない。

そんな決定を安易に下す他球団のオーナーたちに、

強い憤りを感じるのは、私だけではないはずです。

 

というわけで、今年の阪神は、

やっぱり何が何でも優勝しないといけません。

優勝して、30億を優に超える経済効果を、

自分たちの手で創り出してやろうではありませんか。

もう、つまらない野球でも何でもいい。

優勝して、もっとつまらないオーナーたちのハナを

あかしてやろうではありませんか!

 

 

…それにしても、やっぱり30億はちょっと、高すぎます。

せめてその一部を、年俸2億4千万の片岡で払うというわけには、

いかないものでしょうか。

 

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村上ファンドの目的

 

ニュースや新聞を見ていて

どうも腑に落ちないのが、

 

「村上さんは、何のために

あそこまでしてお金を稼ぐのか」

 

ということです。

 

別に阪神の株を買おうが、

シンガポールに移転しようが構わない。

ただ、その理由が知りたいのです。

理由と言っても、

 

「優良な含み資産を持つ不動産を証券化して…」

 

みたいな、新聞紙上で語られる理由ではありません。

知りたいのは、素人でも分かる明快な「理由」です。

たとえば、

 

「どうして投資ファンドを始めたのですか?」

 

「長年苦労をかけた母に、

ラクをさせてやりたかったからです」

 

これなら、誰も彼のことを責めないでしょう。

どこまでラクさせれば気が済むんだ

というツッコミもあるかとは思いますが、

少なくとも「理由」が分かることで、

私たちはスッキリします。

 

別に親孝行でなくたって構いません。

 

「砂漠に緑を取り戻したいんです」

 

「太平洋と日本海を桜で結びたいんです」

 

「日本中の小学校にとび箱を送りたいんです」

 

これだけで、ほうら、あの村上さんが、

とてもやさしい人に見えてきました。

逆に、こうした目的が見えないから、

どこか素人には、胡散臭く、悪いやつに

見えてしまうのではないでしょうか。

 

稼いだお金を、

何らかの「成果」や「目的」と結び付けないと

納得できないのが、

そもそも素人の発想なのかもしれません。

でも、私のような凡人には、

バイクを買うため、ハワイ旅行のため、

月一回の外食のために

一生懸命お金を稼いでる人たちのほうが、

なぜか、よほど幸せそうに見えてしまうのです。

 

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